『元自己否定感のプロが心理学で自己肯定感を手に入れ自分らしい起業に出会うまでの物語』
もくじ
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はじめに
この記事は、私(ユウ)が生まれた時から現在までの生い立ちやそれに関する経験や経歴を書いています。
私がどのようにして長年苦しんだ自己否定の渦から脱出し自己肯定感を手に入れて、自分らしい起業に出会うことができたのか?
自己肯定感を手に入れてからの価値観の変化や周囲の環境や世界が変わっていったことを事細かに書いています。
それではここから始まりです。
言葉数の少ない大人しかった幼少期
私、は3人兄弟の長男として日本のあるところで生まれました。
幼少期のころは言葉数が少ない本当に大人しかった子供でした。
幼少期のアルバムを見た上でのことですが弟が生まれるまではよく泣いていたようです。
弟が生まれてからは弟のために我慢するということを自然と身に着けていたようでした。
母親にあれが食べたいとかこれが欲しいという感情を声に出さずにただ黙って待っていたと思います。
あまり話すことが苦手なためか幼稚園に上がるころには、他の子と比べて話すことができず結果、仲間外れにされることも多々ありました。
周囲と馴染めずに苦労する体験はこの時からはじまりました。
いじめを経験した小学校低学年時代
小学校は両親の仕事の関係で宗教系の学校に入学しました。
宗教系の学校に通った方ならご存じと思いますが、公立の小学校とは異なり特殊な雰囲気があります。
わかりやすく表現すると変に閉鎖的・ムラ的な感じでしょうか?
もともと話すことが苦手なタイプの性格でさらに特殊な環境の小学校ということでいじめの対象となりました。
ノートへの落書きや物を隠される、制服に落書きされる、といったことは日常茶飯のことでした。
私があまりにもいじめられるので家庭訪問では担任の先生が母親に注意するという意味不明な指導もありました。
いじめる子を注意するのではなく、いじめられている方を注意するのが当たり前な異質な私立の小学校でした。
いじめを受けても誰もかばってくれないことで周囲とはさらに喋らない性格になりました。
そんないじめを受ける学校生活が続いた小学校2年生のある夏休みに両親はいじめられている私を心配してか、
まだ7歳の私を子供たちが農村に集団で共同生活する合宿に送り出しました。
その期間は1週間。
私はなんの意味も知らずにその合宿に参加しました。
合宿では、朝から畑で農作物を収穫したり、鶏を育てている小屋から生みたての卵を取ってきて、お昼に卵かけご飯にして食べたり、普段の生活では体験できない貴重な体験をしました。
ここでは集団で寝食共に生活するという生活を送ります。
小学校1~6年生が1週間協力しあって生活を送ります。
そして村の風習として上級生が下級生の世話や面倒を見ます。
このような合宿に参加した直後は親元から離れて寂しさや不安がありましたが、時間と共に寂しさがなくなりました。
なぜなら、今までの様にいじめてくる子がいなかったからです。
合宿では初めて会う子ばかりでしたので、私がいじめられっ子ということも知らないということもあってか、自然と仲良くできる友達ができました。
「合宿の最終日にはまだまだ遊んでいたいな。」
と思うと同時に合宿では食べ放題だった、アイスがもう食べることができないのか。という悔しさ?もありました。
合宿から両親のいる地元へ帰ってきました。
この時のことはあまり覚えていないのですが、
両親曰く、
「元気になって明るくなって帰ってきた。」ようです。
いじめを受けてきて、暗い性格だった子供が1週間の合宿で明るくなって帰ってきたら両親はどう思うでしょうか?
「この農村合宿はすごい。」
ときっと思ったはずです。
それからというもの私はあの夏の合宿以降、3年生になるまでの間、2回ほど合宿に参加しました。
そして2年生の春休みに農村合宿を主催している団体の村に転校することになったのです。
親元を離れて集団生活を送ることに
小学校3年生になった時に農村合宿の村に転校することになったのですが、理解できない人が多いのでここで説明します。
転校とはどういうことかと言うと、今まで宗教系の小学校から農村合宿の村のあるその土地の小学校へ転校したということです。
今までは一週間だけの合宿でしたが、転校してからは1年中、集団で生活し、3か月に一回、春休み・夏休み・冬休みに1週間位、親元へ帰る生活にかわりました。
小学校は農村合宿の村の近くにある地元の公立の小学校に通いました。
農村合宿の村ではどんな生活を送っていたのか?気になると思うので簡単に書きます。
【農村合宿ではこんな生活を送っていました】
●AM6時~起床
(布団をたたむ、服に着替えて
合宿寮の前で班ごとに集合、朝食はなし。)
●AM7時~集団で登校
(田んぼのあぜ道や森の中の道を抜けて登校)
●PM3時~下校
(寮についてから、各部屋の掃除をする。)
●PM5時~夕食
(村で収穫した野菜や肉を使ったメニュー)
●PM6時~宿題タイム
(宿題が終わったら、将棋やオセロやトランプで遊ぶ。※テレビやTVゲーム、マンガは禁止でした。)
●PM9時~就寝
平日はこのような生活サイクルを送っていましたが、週末には畑に行って野菜を収穫したり、森の中で遊んだりサッカーや野球をして遊んでいました。
森の中では木に登って遊んだり、クルミや椎の実、ナツメの実を拾っては食べるという野性的なこともしていました。
小学校3~4年生の時は自然に囲まれ、たくさんの仲間といじめの無い生活を送りました。
この時期は楽しい思い出として今でも記憶に残っています。
思春期のはじまりと新しい土地の転校
小学校3~4年生までは今までの農村合宿の村にいましたが、新5年生に上がるときに両親の仕事の都合で別の地の農村合宿の村に転校することになりました。
新しい土地への引っ越しと同時に思春期を迎えることになります。
この時の環境の変化が体や心に影響して、明るかった性格が「塞ぎがちな性格」になっていくのでした。
転校してからまた新たに学校で友達を作らないといけません。
ですが、心許せる友達ができませんでした。
なぜなら、転校した関東の学校は関西のようなノリがあるわけではなく、大人しい性格の人ばかりだったからです。
静かで大人しい雰囲気の環境に溶け込むのに時間がかかりました。
また、村でも同じような感じで、周りと溶け込むことが難しいという感じでした。
そんな中、上級生として下の子の世話をしないといけないという、農村合宿の村の風習がここで負担になってきます。
思春期を迎えた小学5年生の私は、初めてここで、ふと我に返るのでした。
「なんで僕はこんなことしているのだろう?」と。
今まで農村合宿の村の風習にそこまで疑問に思っていなかった自分が、疑問を持つのと同時に村の方針や両親し対しての反発心が芽生えてきました。
「なぜ、下の子の世話をしないといけないのだろう?」
「なぜ、学校のクラブに入部できないのだろう?」
「なぜ、畑の作業をしないといけないのか?」
ということをいつも毎日のように感じていました。
この時の私はまだ、前向きでやる気があり、真面目な性格でしたが時が経つにつれて荒んだ気持ちになってきました。
そして遂には、
「農村合宿の村を辞めたい。」
という気持ちが出てきました。
しかし、当時の両親はすでに仕事を辞めて農村合宿の村で働いていたのです。
家族全員が農村合宿の村にいる状況では、到底辞めることが出来ないという諦めの気持ちと絶望感が私を襲うのでした。
当時はとてもつらかったのを覚えています。
同級生や先輩、学校の友達にも相談できないまま、1人で悩みを抱えながら生活をしていました。
そんな生活を送っていた小学校生活ですが、6年生になり、卒業という時期に入った時に、中学に上がるときも、農村合宿を続けるのか?という話し合いを両親としました。
この時、本当はもう辞めたいという気持ちがあったのでしたが、両親との話し合いでは
「農村合宿を辞めたい。」
ということが言えないまま、自動的に中学校も農村合宿の村から通うことが決まり、絶望感の中、私は小学校を卒業したのでした。
暗黒の中学生時代の到来
中学校に入学からの農村合宿での寮生活は暗黒そのものでした。
なぜなら、朝5時半起きてから朝ご飯も食べずに家畜の世話をするからです。
豚がいる小屋に入り足のふくらはぎを豚の鼻に突かれながら、豚の糞尿をスコップでかき集めてトロッコに投げ入れていきます。
眠気と、糞尿の臭いと格闘しながら悪夢の1時間半を耐えました。
頭や顔に糞尿がかかるのが何よりも最悪でした。
作業の終わりにシャワーを浴びるのですがシャンプーを使っても臭いが残ることがあるからです。
この悪夢の労働はほぼ毎日のように続きました。
もちろん働いてもお金などくれないし、お小遣いも1円ももらえません。
毎朝こんな悪夢の強制労働をしてから中学校に通うのでした。
労働の疲れと急激に襲ってくる眠気でいつも授業に集中することもできませんでした。
学校が終わり、農村合宿の寮に帰ってからも労働が待っていました。
帰ってからは畑での作業や寮の掃除や片付けなどをしていました。
こんな労働・労働・労働の日々では勉学に力を入れることもできない・・・
私は「辞めたい」と気持ちと「辞められない」という諦めの気持ちを誰にも言わず心の奥に隠しながらただただ耐え続ける日が続けました。
常に下を向いたままの姿勢で暗い雰囲気に包まれた自分がそこにいるだけでした。
その頃には農村合宿の寮での生活態度はとても悪くなっていました。
寮で出された食事を食べない、労働しない、サボる。勉強は全くしない。
中学校にギリギリまでの時間まで意味もなく居残りする。などのことをして反発していました。
こんな日が続いたある日、遂には農村合宿の寮長と両親、私の三者面談が行われました。
私は寮長に叱られながら、最後には退所通告を受けたのです。
三者面談では私は暗い表情をして涙して両親や寮長に謝りながら終わりました。
三者面談終了後、暗い表情でしたが、なんだか肩の重荷が取れたような感じがしました。
中学2年のユウ少年は荷物をまとめて退寮する際、
「もう朝の労働はしなくてもよい!」
「朝はゆっくり起きられる!」
「勉強もできるし、嫌な寮長と会わなくてもいい!」
「学校が終わった後も友達と遊んでから好きな時に帰れる!」
こんな感じのことを思ったのと同時に、少しの安堵とこの先の自分がどうなるのか?
という不安を感じながら、数年ぶりに両親と共に生活する日々が始めるのでした。
自分に自信がなくなり不登校になる。
中学2年で村の寮を退寮してからも、相変わらず、塞ぎこんだ気持ちが自分の心の中を支配していました。
自分でも塞ぎこんだ心の原因が分からないまま、何も考えずにダラダラする生活がはじまりました。
寮にいた時のように誰かに指示されるわけでもなく、朝5時半に起きる必要もありません。
もちろん辛い強制労働もないので超ダラダラしていました。
一日中、緊張感のある生活から、一日中ダラダラしても誰にも何も言われない生活に、180度変わるわけですから、何をするのもやる気がしませんでした。
勉強や趣味とか、将来の進路のことなど考えられないのです。
もちろん寮でも勉強など一切やってきませんでした。
ですから、
「今から勉強しても同級生との遅れを取り戻せない。」
と諦めていました。
中学卒業後の進路もなるべく考えないようにしていました。
「今色々と考えても自分の力ではどうにもならない。」
「考えても意味がない。だからどうでもいいや。」
とあえて考えるという事を辞めてしまっていました。
将来のこととか、勉強のことを考えることを辞めたので、だんだんと学校に行く意味や目的を持つことができず、毎朝起きるのが辛くなりました。
そして、徐々に週に2日、週に3日と学校を休む日が増えてきました。
中学3年生になってからは完全に不登校になりました。
どうしても登校する必要な日が年に何度かありましたが、自分の教室に行くことに恐怖を感じるようになり、この時からなぜか集団が怖くなりました。
あの時は軽い対人恐怖症だったかもしれません。
中学3年になってからは、教育委員会の先生にお世話になりました。
その教育委員会の先生はとても私のことを理解してくれました。
「毎日登校しなくていいから、登校できる日は来てね。」
といってくださいました。
教室に行くのも恐怖ということで特別に別室を用意してくれました。
登校した日の朝には必ずと言っていいほど、別室で熱いココアを出してくれました。
こんな好待遇な中学生がいるでしょうか?
私は誰にも何も言われることなく1時間目から学校が終わるまで1日中ずっと別室で過ごしました。
別室ではおもに遅れを取り戻すための自主勉強と本読んだりしていました。
この時の経験が人とのコミュニケーションで
今後の人生に苦労することになるとは、あの時は思ってもいませんでした。
中学3年の成績は授業にほとんど出ていないので、全教科オール2でしたが、無事、卒業できました。
義務教育だから当たり前ですよね。
相変わらず超根暗な高校生時代
私は中学卒業後、再び家族と共に新しい土地へ引っ越し、通信制の高校入ることになりました。
通信制の高校は2週間に1日通学してあとは自宅で課題レポートを学校に提出するというシステムの学校でした。
農村合宿の生活や中学校のように、普段から集団行動しなくてもいいので、このシステムは私にとってありがたかったです。
新しく引っ越した土地には土地勘もなく、言葉のイントネーションが違うことに戸惑いながらも生活していました。
学校のレポートは簡単なものでしたので、一日中、家に引きこもることも出来たのでしたが、逆に暇すぎて何もやることがありませんでした。
そこで私はスーパーマーケットや食品加工の工場などでバイトをはじめました。
バイト先ではやはり場に馴染めなかったのですが、最低限のコミュニケーションをとりました。
あの当時は話すときも声が小さく、無理して笑顔を作っていました。
「自分はやっぱり根暗だな。」と自覚していました。
今思うと高校時代は外で活動する時間よりも、引きこもっていた時間が長かったせいか、あまり思い出や記憶があまり残っていません。
高校時代は家に引きこもって、絵を描いたり、音楽を聴いたりしながら過ごしていたという、記憶が微かにある程度です。
学校も2週間に1日しか通学しないので友達が1人も出来なかったせいか、楽しい思い出もありません。
そう考えると、私の高校生活は、超暗黒な高校生活を4年間だったと思います。
卒業後も相変わらずフラフラする生活へ
高校卒業後は、その後の進路など全く考えていなかったので、相変わらずフラフラする生活を送ることになりました。
自分に自信がなく、将来なにがしたいとか、希望とか目標など持てない日々が続きました。
とりあえず、働かないといけないので、ホームセンターでのバイトや工場での派遣などをして生活費を稼いでいました。
自分のしたいことが見つけたきっかけ
そんな生きる意味も目標もない、フラフラした生活を送っていた私でしたが、ある日、親の知り合いが整体院をしている。と言う話を聞きました。
私は、
「整体ってそもそも何?」
「どんな職業?」
「食べていけるの?」
こんな疑問や興味が湧いてきました。
そして、整体に関する情報を本やネットで調べていきました。
調べていくのと同時に徐々に自分にも「整体師として生きていけないか?」という思いが出てきました。
整体師になるには整体の勉強をする必要があるのを知り、いくつかの整体スクールの資料を集めたりしました。
また、実際に整体院に行って施術を受け、どんなものか体験しながら情報を集めました。
そのとき、整体院で出会った整体師さんが後の私の整体の先生でした。
その先生の施術を受け、何回か通ううちにいろいろ知りたいことを質問していきました。
質問していくなかで「この先生から学びたい。」という気持ちから、
整体の技術や知識をその先生に教わることになりました。
1年ほどの間、平日は工場での勤務をしながら、月2回、先生の元で知識と実技の勉強する生活を送りました。
そんな生活が一年経ち、私は実家の一室で整体院を開くことになりました。
開業してはじめたことは、チラシ作りでした。
パソコンで作ったチラシをプリンターで数十枚印刷してはポスティングに行くということを
繰り返していました。
(当時の私は知識がなかったのでビックリするぐらい超効率悪いことしました。無知って怖いなとしみじみ思います。)
で、開業してからうまくいったのか?
いや、全くと言っていいほどうまくいきませんでした。
なぜなら、私の性格や素質の部分としてコミュニケーション能力が劣っていたからです。
新規のお客さんが来ても意思疎通ができない。
相手の考えや気持ちを汲み取れない。
といったことでリピートされないので経営が上手くいかなかったのです。
しかもそのコミュニケーションの問題からくる経営の不振はその後も数年と続きます。
自分では経営の不振の問題がコミュニケーションの能力の欠如からきているという自覚していませんでした。
自分がうまくいかない理由や原因を自分の外側に求めることをずっとしていくのでした。
例えばマーケティングセミナーや技術の研修セミナー、高額の塾に参加するなどしていきました。
貧乏治療家時代の話
当時は、昼間は整体院、夜は工場のバイトをする生活を送っていました。
夜8時に工場に出勤、翌朝の7時に帰宅して、お風呂に入って昼の12時まで寝て、午後からは整体とチラシのポスティングをするという毎日送っていました。
当時はマーケティングの本や教材を買いあさっては実践するという日々をしていました。
ある時、ネットでマーケティングの教材を見ていくうちにとある治療家のマーケティング塾があるのを知り、当時の自分には高額ではあったものの、
「自分も月収100万円の治療家になれるかも。」
という期待を胸に入塾することになりました。
入塾初日、私は緊張と不安を抱えながらマーケティングの講義を受けて一日がかりで帰路につきました。
帰宅してから課題通りにすぐにチラシを作ります。
手書きのきたないチラシでしたが、とりあえずポスティングしました。
そうしたら速攻で反応が出ました。
チラシ単体で多い時は月40人くらい集客できました。
リピーターも少しですがとれるようになり、0だった売り上げが40万円近くまで上がりました。
「あ、このままいけば、100万円いくかも。」
と思っていたのですが、ある時を境にポスティングをしても集客できないという問題にぶち当たりました。
チラシの内容や構成を変えても全然反応が出ないのです。
当時は初回お試しのメニューを3回1980円とか3回2980円でやっていたので、
(この料金メニューを取り入れている治療家さんはよくわかると思います。)
新規が来ないことで徐々に売り上げが落ちていきました。
なんとかリピーターの患者さんだけで、なんとか売上をキープするのがいっぱい、いっぱいの状態でした。
そしてこんなことをしているうちに半年間の塾の期間が終了してしまいました。
入塾当時の目標だった100万円を超えるどころか、30万円の売り上げさえもない状況でした。
そんな状況でとても塾を継続する考えにもならず、私は静かにフェードアウトしていくのです。
その後の整体院経営はあなたの想像通り「廃業」という結果が待っていました。
ですが、塾をフェードアウトしてから廃業までの時間は以外と長かったです。
廃業するまでの間に一人でできる限りのことを試しました。
もちろんクレジットカードで借金しながら。
本当にいろいろと試してみました。
例えば、
チラシをまく地域を変えてみたり、
ターゲットを専門的なものに変えてみたり、
料金設定を高額にしてみたり、
広告媒体を増やしてみたり、
広告費をさらに投入することもしました。
あとは意味不明ですが、ポスティング用に使うバイク買ってさらに借金しました。
(歩いて配るよりバイクで配る方がたくさん配れるで)
最後の方には病院に行ってポスティングもしていました。もちろん警察沙汰になりました。
(病院に行けば、とりあえず患者さんがいるので)
一人なりに考えた施策は反応が出ても、一時的なものでどれも長く続くものではなかったのです。
そんな生活が続く中、ネットサーフィンしていると、かつて同じ塾に通っていた同期の治療家がどんどん売上を上げて次のステップに進んでいることを知ります。
正直とても悔しかったです。
他の成功している先生は月100万、自分は底辺を這いずりまわって月15万の売上に借金200万円のブラックな生活。
「あの先生は上手くいっている。自分は何がダメなのだろう?」
「あー、自分はやっぱ治療家向いてないか?」
こんな自己否定と自己嫌悪をしている自分がいました。
仕事のモチベーションも生活していく意欲もとっくに下がっていました。
もはや何のために自分が治療家を続けているのか理由も分からず、ただただ無駄な時間だけが流れていきました。
その間に何度も廃業しようかと考えました。
ですが、廃業するのをすごくためらいました。
なぜなら、廃業すると今まで費やしてきた時間と労力を全否定することになるからです。
そんな心の葛藤を抱えた状況が2年ほど続いたある日、
「自分は治療家でやれることは全部した。整体院を閉めよう。」
と決心しました。
そしてようやくここで8年間続けた整体院を廃業することになりました。
整体院を廃業したことで生きる目的を失う。
整体院を廃業してからは、なにもやる気が起きず夜勤のバイトも辞めてしまいました。
これから自分が生きていくための目標や生きる意味を失った私は毎日生活していく気力もなくなりました。
自己否定の強かった私はとうとう、『うつ』になってしまいました。
常に「死にたい。消えたい。」という気持ちばかりが私の心を占めていました。
最後の方には自分はどこで、いつ、死のうか?と場所や時間を調べている自分がいました。
あの当時のことを今でも思い出すと心が苦しく感じてしまいます。
ある心理カウンセラーとの出会い。
そんな生きた心地がしない生活を1年くらい送っていた時にある心理カウンセラーの先生に出会いました。
カウンセリングやセラピーを受けていくことで当時の自分の苦しい心境を理解して頂きました。
何度かカウンセリングとセラピーを受けることで徐々にですが、うつの症状は減っていきました。
そして、私は遂にはうつ症状から脱出することに成功しました。
この時の心理カウンセラーの先生との出会いが、今後の自分の人生を変えるきっかけになるとは当時は想像もしていませんでした。
うつ症状が治り、新しい仕事を始める。
整体院を廃業後、うつ症状になり、そのうつ症状が治った私を見た家族が
「ネット物販をしていて人手が足りない。」
「だから、仕事を手伝ってくれ。」
とお願いされました。
私はとりあえず、
「3万くらいお小遣いくれるならいいか。」
という軽いノリで手伝って上げました。
そんな軽いノリで始めたネット物販でしたが、このネット物販が自分の生活を変えていきました。
ネット物販をはじめた当初は商品の発送と商品の仕入れ方法などの基本的な事を家族に教わり、
毎日Amazonの販売画面をみて、何時間も商品の発送と仕入れるという作業をしました。
作業をしていく中でAmazon販売の仕組みを理解したことで、
月商150万だった売り上げがたった3ヶ月で月商300万くらいまで上がりました。
売上が上がってから1か月後のある日、Amazon本社から連絡がきました。
「販売中の商品をAmazonの倉庫に預けてはどうですか?」と。
そこで私は初めて商品の梱包も発送も完全自動化できるのを知りました。
Amazon販売に詳しい人ならわかると思いますが、いわゆるFBA販売というものです。
(分からない人は検索してみてください。)
このFBA販売をするまではAmazonから注文が来たときに商品を自分で梱包・発送するという作業を毎日6時間くらいしていました。
それが、商品をAmazonの倉庫に預けるだけで梱包・発送をすべてアマゾンがやってくれるので、自分は仕入れの注文をメーカーにFAXして商品をそのままアマゾンの倉庫に発送するだけになりました。
すると、1日6時間だった作業がなんと1日1~2時間くらいにまで減りました。
Amazonに全部任せて完全自動化してから、徐々に売上が上がっていき、月商300万円の売上が月商500万円まで上がりました。
多い時には月商700万円くらいまで売り上げました。
うつ症状が治り、物販を手伝い始めてから、1年後にはお金と時間の余裕ができました。
お金と時間の余裕ができることで自然と自分に自信が持てるようになっていいました。
毎日1~2時間くらいしか働かなくてもお金が入るので、毎日ジムで身体を鍛えたり、一人暮らしをはじめて今までしたことなかった料理などをして楽しみました。
気分転換に日本全国いろんなところにも旅行をしました。
人生史上、超充実した生活を送っていました。
しかし、自分にある程度の自信を持つことができたのでしたが、なにか心が満たされない感じと未だに自己否定を感じている自分が存在していました。
心理学という未知の世界に出会う。
そんな中、整体院をしていた時に知り合った心理カウンセラーの心理学の講座に受けることになりました。
講座を受講しようと思ったきっかけは興味本位で受けたというだけでしたが、
心理学を学ぶことで自分自身を理解し、他人とのコミュニケーションを学ぶという点では大いに役に立ちました。
なにせ今までまともにコミュニケーションをとったことがなかった人間でしたので。
心理学という分野は自分にとって未知の世界でしたが、自分の心の成長していく機会が今こうして与えられているだけでも、
「自分が取り巻く環境が変化しているのだな。」という実感を持てました。
コミュニケーションの方法や心の仕組みを理解したことで周りの人が感じる印象も変わっていきました。
数年ぶりに知り合いに会った時には私の姿、顔つきの変化に驚かれました。
なぜなら数年前の自分とはまったく違う人間がそこにいたからです。
私が自己肯定感を手に入れるまで。
私が自己肯定感を感じられるようになるまでは多少の時間がかかりました。
今まで先生の心理学講座を受けてきたのですがその講座はおもにコミュニケーションと心の仕組みを学ぶことがメインだったからです。
対人のコミュニケーションで悩むことはなくなりましたが、どうしても自分の中にある、根底の部分の強い自己否定の気持ちはなかなか拭い去ることはできずにいました。
なにか新しいことに取り組むときもどうしても自己否定の気持ちが出てきてしまいます。
いつも他人と比べてしまい、自分のことを下にみてしまう傾向が残っていました。
この時も
「完全な自己肯定感を持つ。」
というところまではいっていませんでした。
自己肯定感に関する心理講座を受講する。
自己肯定感がどうしても持つことができないまま、1年が過ぎ、ようやく私にとって強い自己否定感から脱出し、自己肯定感を感じられる時がやってきました。
遂に心理カウンセラーの先生が自己肯定に関する心理学講座を新たに開講したのです。
私は運よく、初めにその新しい講座を受けることになりました。
この講座を受けたことで私は生まれて初めて強い自己否定感が少しずつですが弱くなり、自然と自己肯定の気持ちを感じられるように心が変化していく、何とも言えがたい体験しました。
受講終了後、自己否定感は残っていたのですが、自分が自己否定感を感じていた原因が理解できたので、生きる上での安心感がでてきました。
時間が経つにつれて、徐々に自己肯定感を持っているのが当たり前の感覚に変化していきました。
今まで他の先生のセミナーや講座を受けた後は必ずと言っていいほどモチベーションが上がり、行動するのですが、その効果は一時的なもので長続きしませんでした。
当時の自分を思い出すと、何かに駆られているような行動をしていたのだと思います。
この新しい自己肯定に関する心理講座を受講後の今も、この記事を書いている今現在も、私はずっと長い間まで自己肯定を感じられる安定した気持ちを維持できています。
私は、この講座を受けることによって、お金や時間があっても自己肯定感がないと幸せに生きられないということを知りました。
そして、
「強い自己否定感を手離すことで自己肯定感を自然と感じられる自分に出会うことができる。」
ということがわかりました。
私は今、自分の経験やスキルを多くの人に教える仕事をしています。
私は現在、整体院を再開業してからの傍ら、自分の経験やスキルをオンライン上で多くの人に教える仕事をしています。
例えば、カウンセラー・セラピストで起業したい方やオンラインで起業したい方のサポートをメインにさせてもらっています。
他には、
★ビジネス仕組み化
・ビジネスの基礎となる仕組み化のアドバイス
・各種業種向けの集客方法のアドバイス
・リピート販売の強化ノウハウ
・完全自動で売上を上げるノウハウ
・市場リサーチノウハウ
・出口戦略からみたビジネスの構築ノウハウ
・各業種別、キャッシュポイントの増やし方
・ツールを使った人件費削減のノウハウ
・新人教育の効率化ノウハウ
★ビジネス初心者・個人起業家向け
・お金をかけずに起業する方法
・自分の強みから商品サービスを作成する方法
・廃りのないビジネスモデルの構築ノウハウ
・自分の商品・サービスをネットで販売するノウハウ
・コンサルティングの始め方ノウハウ
・ワードプレスブログ・ホームページの始め方
★ホームページのSEOに関すること
・店舗のホームページを地域で検索1位獲得する方法
・検索結果を上位にする文章の書き方
・集客できるホームページの作成ノウハウ
★サロン・治療院・その他店舗経営に関すること
・300枚まいて1件集客できる治療院チラシの作り方
・反応の出るポスティングの方法
・ライバルとの差別化で売上を上げる方法
・地域の人口動態を調べて集客につなげる方法
・ニッチなキーワードで検索結果1位にする方法
・SNSからの無料集客を増やす方法
・リピートアップの方法
・LINEからの問い合わせを増やす方法
・グーグルマイビジネスに登録して集客につなげる方法
・PPC広告出稿・広告運用ノウハウ
・PPC広告のクリック単価の下げ方
★ネット物販(アマゾン販売)について
・アマゾン販売の始め方。
・アマゾンでさらに売上を上げる方法。
・アマゾン販売を自動化させる具体的な方法。
今あなたに伝えたいことがここにある。
この記事では、私がこの世に生まれてからの今までの経験と経歴を書いていきました。
「強い自己否定を手離すことで、自己肯定感を感じられる新しい自分に出会える。」
ということを伝えるためにこのレポートを書きました。
また、こんな強い自己否定感があった私でも、今では多くの人に自分の経験やスキルを教える仕事を自信を持って出来るまでに成長しました。
今、あなたが自己否定の気持ちが強く、自分に自信がなくても、生きる意味を持てなくても大丈夫です。
あなたも強い自己否定を手離すことで自己肯定感を感じられるようになります。
自己肯定感を持てる自分に変化することで、今までの自分からまったく新しい人に生まれ変わります。
今は信じてもらえないとは思いますが、私のように本当に別人のように変わります。
人は変化を恐れます。
どんなにこの先の未来が良いもの、好転できるものが待っていたとしてもその変化に恐れます。
ですが、その変化を恐れずに生きていってください。
大丈夫です。
あなたもきっと変われます。
変化することを恐れずに楽しんでください。
子供時代からいじめや特殊な環境で育ち、暗黒×暗黒の学生時代を過ごし、社会に出てからも上手くいかず、うつになり、自殺しようと考えていた時もあった、強い自己否定感に苛まれていた私でもこんなにも変化しました。
私は過去の自分のように悩んでいる方を勇気づけるために存在しています。
そして、新しい自分・新しい世界があるということを知ってもらうためにSNSやブログで情報発信をしています。
とても長くなってしまいましたが最後までお読みいただきありがとうございました。
※追伸
強い自己否定感から脱出し、自己肯定感を持った自分になるためのTwitterを開設しています。
Twitterではかなりコンパクトに自己肯定感について発信しています。
そして、今なら3万円相当のレポート集を配布する企画を期間限定で開催していますので興味がある方はぜひフォローするしておいてください。
それではTwitterでもあなたにお会いできるのを楽しみにしております。
2022年 2月12日
ユウ
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